金沢美術工芸大学所蔵作品
黒岩卓夫所蔵作品
遺言書(意訳)
十種観音下絵(白描)は肖哲一生かけての作である。
明治十九年十二月、一人笈を背負って上京し、一流の日本画家になることを誓い辛酸をなめて修行中、たまたま宮内省(明治二十一年四月)臨時国会宝物調べの仕事に同行し、京都・奈良の社寺の宝物の拝観が許された。そして京都の廣隆寺を訪ね一千二百年前、和銅天平時代の古い仏像を拝して、その姿に感嘆し、その瞬間に脳裏に閃いたように、将来仏画家として有名になることを誓い帰京した。
ところが師の狩野芳崖が予期せぬ事態となり永眠してしまった。
そこで将来を思案し、開校することになった東京美術学校の第一期生として日本絵画を修めて明治二十六年七月卒業した。卒業後石川県立工業学校の絵画を教職に就き、仏画の研究に没頭し、その後母校の教鞭もとったが満足できず、自ら進んで帝国博物館んて国宝仏像絵画の模写を担当し、或いは米国人(モールス)の依嘱から、再び(明治四〇年七月)京都・奈良の国宝絵画を選び、模本作製に携わること数年、からわら一千三百年余年間の仏像調塑の技芸に深入して懸命に勉強に励んだ。
また自分が好んで描いたものは両界曼荼羅(金剛界・胎蔵界)、千児観音、並びに諸式観音図を専門に作成した。
また高野山(大正十二年九月)に登っては、有名な二十五菩薩如迎図(本王院)を模本したが、摸作はこれを最後とすることにした。
そして山籠もりすること数年、密教の仏像(真言宗)の研究を究め、後に釈迦の涅槃図の作成を依頼され、これを仕上げた。たま余力があれば、主として諸観音図を描いて誰にでも大理智観音図を描いてあげること数えきれないほどだった。しかし関東大震災で東京にあった作品を全部失う不運に遭遇した。それにも屈せず、苦心慘噡たる修行の合間に起こる自然揮毫の結果、十枚にいたる十種の正観音の下絵を得ることができた(昭和十三年)。これが即ち比巻(十種白描観音)である。
しかし四十年にわたる研磨の結晶であり、短年月になし得るものではい。さらに観音図に彩筆するには、今まで以上の努力をしても簡単にできるものではない。ただ仏画を専門で描こうとする子孫がいれば、この下絵は最高の手本になるものと考える。私の研究の奥深い成果はこの下絵に描かれているが、この真髄は十種観音に現れているとしても、散逸しては灰燼に帰すに等しい。何人たるも私の願いを大事にして後世に末長く伝えてほしい。
観音面相は悟道により願はるるものにして掌いもちたる蓮花の形の如何或は掌の上下の振り方又は全体の姿勢等により面相は各々異様に変わりて一致したるものにあらず、唯長年月の研究の間に自然に現はし得たる面相なるを以て世々秘蔵せしむる所以なり
千時昭和己卯十四年仲秋 年七十有四 高屋肖哲